昭和55年9月24日  朝の御理解


御理解第44節
 狐狸でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれば、死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ。


 生神を目指した信心、根本的にここから信心が発足した信心でなからなければ、今日の御理解の意味が分からないと思うですよね。いやあ、私達はもう生神様やらならんでよかじゃなくて、この世でできんならばあの世ででも生神の位が頂きたい、もうこれは百年千年かかってでも、目指すところはやはりそこなんだという信心から発足しなければ、あの、お道の信心のいわば真髄というものには触れられないと思うです。ただご利益を受け、おかげを受けると、だから金光様の信心をしよりましたというだけでは、はあ、これは、もうそれは金光様じゃなくても何様でもいいという事になります。金光様の御信心はどこまでも生神を目指す、だからいつも生神を目指す、そんならばどういう信心させてもらったらよいか、どういう生き方をさせて頂いたらよいかという事が必ず問題になるわけです。それで、こういう事でいけない、こういう生き方ではいけないという事にも、まあ、反省もできますし、またそれに取り組む事もできる。それがまた、取り組む事ができる事がね、人間だと思うんです。いわゆる万物の霊長というものの値打ちはそこだと思うです。良心がある、ね。
 ところが、なら、初めから私は生神様になるために金光様の御信心をいたしますというような人はまずはないでしょう。やっぱり、人間の悩みとか、難儀とかというようなところから、金光様という事になり、教えをだんだん頂いていく内にそういう事になってくるんですね。
 昨日はあのように秋の霊祭りが盛大に奉されました。昨日のお話の中にも申しましたように、御霊はいうなら家の根である。だから、根を大切にして枝葉の栄えたためしはない。といったような、まあ、いうならば、道理なんです。根の無いものがいつまでも生き続ける事もできないし、その根を大切にしなければ枝葉の栄えるという事も無いし、だから、大切にするというのではなくて、大切にせずにはおられないという心、それが信心によって育つというならば、そういう心の事だろうという話を皆さんに聞いてもらいましたよね。代々の祖は我が家の神、我が神と心つくしていつきまつらなというわけです。ご先祖の御霊様は自分の心の中の神である。同時に家の神だと、だからそこに敬虔な祈りがいるし、または、真心込めた、その、いつきまつらしてもらう心も生まれてくるし、そして、そうせずにはおれない心、それが信心によっていよいよあか抜けしたものに育てられていくという事なんです。
 初めの間は、お参りをする、御取次を頂いておかげを頂いて、まあ、神様を、はあ、なるほどと合点がいくように神様を頂く事ができる。そしてその神様のだんだんお心が分からせて頂くと、そのお心に沿い奉るという事が、おかげを頂かなければならんから沿い奉るのではなくて、もう当然の事として神様のお心に沿い奉る生き方を身に付けていくという事が喜ばしい事、有難い事という事が分かってくる。そうせずにはおれん心、それが、いうならば私は神になる心だと思います。条件が無いのです。いや、参りゃ参るだけあるばのと、参ってみなさいというようなところから始まるかもしれません。けれども、参りゃまいるがたある、朝参りをすりゃ朝参りをするがたのおかげは頂くというのではなくて、そうせずにはおられない心がいよいよ募ってくる。そういう有難い心が一日中私の心を、昨日の朝の御理解じゃないけど、祈りに明け暮れする信心生活が本当にできるようになるのです。
 人間は万物の霊長なればとかある。万物の霊長ですからそういう事に気付かせていただく事も人間でなからなきゃできないのです。けれどもそういう大変な、大切な事を気付かずに分からずに(はたけ?)いく人がどのくらい多いかわかりません。我情がいっぱい、我欲がいっぱい持っております。けれども、その我情を捨て、我欲を捨てて、真の道を分からせてもらおう、それが、万物の霊長であれば、道理を見て、道理に合う信心とはそういう信心を言うのです。
 恩を知るとか、恩を感じるとかという事も、やはりこれは人間だけ。犬猫でも三日飼えば恩は忘れんと言うけれども、そりゃどうか分からん。けれども人間は確かにそれを感じ、そしてそれをいうなら報謝の心、それに応える心というものも人間の心の中にはある。けれども、それも、ただ(よくあくぼんのうに?)ほだされてしもうたら、もうそれこそ人間でありながら性が変わってしまう。あの人はもう犬畜生にも劣り果てた人だという風にも申します。だからいかに人間が万物の霊長というても、我情我欲につっぱった生き方をしておると、いつの間にか人間の面しとるだけ、性はもう人間の性というものがなくなってくる。布でもそうでしょう。汚れたまま放っておきますとその汚れからその布の性が変わってくる。そしてもうビリビリ破れるようになるでしょう。あれがもうこりゃ性が変わっとると言うて捨てられます。人間も性が変わったらおしまいです。犬畜生にも劣り果てた事になります。いや、あの世が恐ろしい。
 私どもが金光様の御信心をさせて頂くならば、おかげを頂くから参りよりますというところから、参らずにはおれない、家が繁盛するために家の根である先祖を大事にするというのではなくて、斎き奉らなければおられない、尊ばなければおられない、そこに信心家庭の、いわば雰囲気というか情操が生まれてくる。そういう情操の中に良いものが育たないはずが無い。そういう例えば中からです、良いものは生まれません。
 私どもが本気で金光様の御信心を頂いたら、なるほど、初めおかげを頂くために参りよります、参りゃ参るがたありますよと、やっぱり家の先祖を大事にして、お祭でもさせてもらうと家が繁盛しますよというのではなくて、繁盛とか、参りゃ参るがたあるとかという条件ではなくてですね、そうせずにはおれん心を育てていくという事が、私は生神を目指すという事じゃないかという思う、その生神の芯になるものはやはり和賀心であります。和らぎ賀ぶ心なんです。和らぎ喜ぶ心、それはこの世ではできん事かもしれません。いや、できんでしょう。生神になるというのは、そういう高い位を頂く事、できんでしょうけれども目指すところはそこですから、んーなら、あの世へ行ってもやはり生神を目指しての精進ですから、そういういうならば御霊が、天地の親神様から大切にされるのはもちろんです。この世でもそうです。生神を目指す、無条件、そこに和らぎ喜ぶ心を目指させて頂いての信心するから、おかげは和賀心にあるという限りない、尽きぬおかげに触れていく事もできるわけですよね。
 どうぞ。